私は何をそんなに肌身離さず握りしめているのだろうか。しっかり握って離さない、嫌だ嫌だと言いながら、その臭いものをわざわざ自分のそばに置いて、なかなか手放そうとしない。離れようと思えばいくらでも離れることができるだろうに、今いる場所は広くて、その臭いものなんていくらでも遠ざけることができるだろうに、何故か自分から離れようとしない…。
自分でも不思議でした。毎日「なんだか嫌な気分」がするので、何故こんな気分になるのか、(毎日主婦業と仕事に追われて自分の時間も満足に取れず心身ともにしんどい、といった慢性的な不満はあるものの)これと言って何か問題が起きたわけでもないのに、何故か憂鬱なのです。
寝る前の空き時間とかでも、とにかく何でも良いので、例えばお気に入りのバラエティ番組を観るとか、気になっている映画を見てみるとか、楽器弾くとか、YouTubeで大好きな心霊動画観るとか、いくらでも楽しめることがあるだろうに、それもせずただただ「嫌な気分をじっくり味わってしまう」のです。
いい加減こんな毎日をどうにかしたいので、何故こんなことをしているのか考えてみたところ、結局は「自分以外の何かのせいにしたい」のではないかと考えてみました。
確かに、自分以外の何かのせいにしてしまうのは、楽なことかもしれません。私は悪くない、悪いのは〇〇のせいだ、あぁなんて私は可哀そうなんだろう、こんな嫌な気分になるのも仕方がない…こうして常日頃から自己憐憫に浸り続けます。でも、こんな風に何かのせいにしたところで、その「何か」が将来私の嫌な気分を解消してくれることはなさそうです。旦那や子供が私の期待通りでないから、私にはお金や時間が無いから、といった「何かのせいである世界線」にいる限り、常に自分以外の何かに足をひっぱられる「前提」が成り立ってしまいます。この態度は依存的で、「自分の人生の舵を他者に委ねている」と言えそうです。
ではどうすればよいのでしょうか。依存の逆、やはり自立的に「自分で結果を作る」ことだと思われます。
他者が自分の期待通りでないのなら、自分が自分の期待に応えるしかない。他者がやってくれるのを待つようでは期待値は低い(他人と過去は変えられない説)ので、自分で考え立ち回って、自分で結果を作るしかない。つい「でも、だって」と立ち止まってしまいそうになるけども、過去は変えられないのだから過去への執着心を手放すと「決め」なければならない。「自分を幸せにできるのは自分しかいない」と、昔誰かが言っていました。
こうも捉えることができます。自分が自分の期待に応えることができるのであれば、わざわざ期待値の低い他者に期待する必要がありません。期待値の低い他者より、自分が変えることのできる唯一の存在である自分自身を頼りにする方が、よっぽど期待値が高そうです。
そうか、自分を頼れば良いのか、それなら自分で好きに選んで、自分で好きに決めて良いよね。さぁ私は「これからのどんな自分」を選ぼうかな…ちょっとワクワクしてきました。
認知科学者の苫米地英人博士は「過去は一切関係ない」と言っています。これは、引き寄せや潜在意識開発系でもよく耳にします。「今ここ」にいて、これからの自分を「自分で選ぶ」。この小さな繰り返し、思考習慣が、今自分がいる世界線を動かすことになるのだと思います。

