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毒親にならないために

毒親とは、「自分の心理的な問題を、子供で解消しようとする親」であるという話を、こちらのページで書きました。

ところで、大の大人が自分よりも随分若く幼い人に心理的な問題を解消してもらわなければならない状態とは、一体どういうことでしょうか?このような視点で見てみると、よほど緊急性が高く、深刻度が高いと見えます。

そうです。心底心が満たされていないのです。冗談なしに「このままだと生きてはいけない」くらいに。人の心はよくシャンパンタワーに例えられますが、我が子と言えど、人のグラス(心)にシャンパン(愛情)を注いでなんかいられないくらい、自分のグラス(心)が満たされていないのです。

親になると、責任や義務がのしかかってきます。自分のことなど問答無用で後回しにせざるを得ないくらい、急かされ、育児のクオリティーも自分で求めたり求められたりして、すごく悩みます。

でも、依然として確かに存在します。親の心に未解消の「わだかまり」が。恐らくずっと前、子供の頃から存在しています。

それが、育児(や両立している家事や仕事)で心に負荷がかかると、今までは保てていた平常心が豪雨で決壊した土手のごとく崩れ、未解消のわだかまりがあふれ出てきます。

こうなるともう、「実は」緊急度も深刻度も共に高い状態になります。でも、親本人は気が付いていません。自分のことはすっかり後回しにしてしまっているので、まさかそんな深刻な状態だとも思っていません。でも、何とか理性で抑えようとするので、抑えること自体に集中してしまいます。「あぁまた酷いことをしてしまった。でも明日こそは…」と、とにかく表面上の自分の行動だけをどうにかしようとします。でも、難しいです。理性の土手の隙間からちょろちょろと未解消のわだかまりが流れ出てきて、いつしかまた心の土手が決壊します。非常に脆弱な土手です。

この非常に脆弱な土手(心の問題)に対策するとしたら、以下が考えられそうです。

①負荷を軽くする

②土手(心そのものや、心を支えるもの)を補強する

実際には①と②を並行して行うことになりそうです。

…と、ここまでは、自分が「毒親である」または「毒親になりそうである」といった自覚のある場合に有効ですが、「自分で気が付かないうちに毒親になってしまっているかもしれない」場合はどうでしょうか?どこを見て判断すればよいのでしょうか?もしくは、「総じて何に気を付ければ毒親にならずに済む」のでしょうか?

私個人が今のところ出している結論になりますが、ただ一つ、それは「子供の心を無視しない」です。極論を言うと、親自身の能力は問題ではなく、でも唯一やってはいけないのがこの「子供の心を無視する」ことだと考えています。

親だってやりたくないことや譲れないこともあると思いますし、何でも子供にYESを返す必要はないと思います。親も人間で失敗もするので、子供の前で常に模範解答を示す必要もないと思います。もちろん、人として成長するうえで身に付けなければならないことを伝えるために「それは違うよ」とNOと言わざるを得ないこともあると思います。さじ加減が難しいので、親が学んで育児の「ブレない軸」を身に付ける必要がありそうです。同時に、親自身が失敗を素直に認め、正直な気持ちを伝えられて、等身大で居られると良さそうです。子供の前で「模範的で完璧な人」であり続ける必要は無いし、無理です。

そのうえで、「子供の心を無視する」ことは絶対にやってはいけない…例えば、その時子供が抱いた感情を無かったことにする…転んで泣いている子供に「ほら痛くないよ」といった具合に。痛くないよと言われても本人は確かに痛みを感じているのです。痛みだけでなく、転んだ衝撃で驚いてショックも受けているかもしれません。感情は子供本人が感じていることであり、他人が選んで決めることではないです。大人の価値観そのままを教育と称して押し付けるのも違うと思います。心には成長段階があり、年齢に合ったステップを踏まなければなりません。その子供は自分の気持ちを無視するようになり、本当の感情がわからなくなっていきます。精神疾患の始まりです。子供の心に寄り添って、成長に「伴走」したいと思います。

不誠実な態度は子供に不信感を抱かせ、子供は心の拠り所を失います。万が一、子供の心を無視してしまうようなことがあった場合は、最低でも気が付いた時点で素直に謝るべきだと思います。悪いことしたなと思えば、赤の他人には普通は謝りますよね。我が子だって親の所有物でもサンドバッグでもなく、一人の尊重されるべき人格なのですから。

以上、筆者自身の自戒も込めて書きました。偉そうなことを書きましたが、筆者もまた毒親であり、なんとか抜け出そうと日々苦悩し葛藤している一人です。

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